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yumiko segawa

今日は心して、 『J.S.バッハ / ヨハネ受難曲』



 今日生まれた方は、ひょっとして、堅実で忍耐強く、コツコツ物事を積み上げ…大器晩成型の方かもしれない...そんな牡牛座神話を信じてしまうのも無理もありません。。。 “全速力で走りきる孤高の牛さん🐄”とでも言うべき、クライマックスを本当に“最期の日”に間に合わせてしまった恐るべき預言者、i教授こと、故礒山雅先生の集大成のお仕事に捧げて、生きていらしたら74歳のお誕生日の今日は心して、 『J.S.バッハ / ヨハネ受難曲』 。

ちょっと長くなるけれど、ここでは先生の研究の100万分の1にも満たないダイジェストで。

さて、この受難曲には上演の度に形を変え、4つの形態が存在する。 「なぜ?」 i教授の、その謎解きへの挑戦の記録が、あの不運の事故からずっと封印されてきた。 開封。 読了して思うに、これは、バッハ自身によるヨハネ福音書、あるいはテキストとの“距離の取り方”から見えてくるもの、を感じる作業にほかならないように思えました。 福音書、テキストはある種の呪縛でもあるけれど、そこからバッハがテキストの選択・編集、コラールの整形、また特にアリアの音楽の中で、テキストの頭ごしにあるものへ世界を拡張していく。 受難の聖金曜日の枠を、越え出る?逸脱しそう? そのギリギリまで、テキストに「音画の実現」として寄り添いつつも、時に歌詞の変更をして、希望へ歩み出ようとするバッハ。そのバッハの心情をこと細かにi教授が実況中継してくれる。そもそも 純粋な「ヨハネ福音書」が存在しているのかも定かではない。謎の「編集者」の存在であったり、ヨハネ自身も一体異邦人なのかギリシャ人なのか…このバッハの『ヨハネ受難曲』は、4人の福音書記による調和福音書の『ブロッケス受難曲台本』がタネ本であると。 要するに台本は、純粋な『ヨハネ受難曲』ではなかったということ。

調和系列の台本であったということ。それ故に、この受難曲が出来上がるまでの「編集者としてのバッハ」に目が離せない。その選択ひとつひとつに、取り残さずに、どこまでも緻密に、忍耐強く迫っていくところが牡牛の礒山先生流。バッハ自身による4回の書き直しの過程にも、一音一音、音楽の内容にも、色濃く現れている。 真実を求めて「何度も」書き直す…あぁ、かのwork in progressのブーレーズは、バッハと同じ牡羊座であったか…(* ̄∇ ̄)ノ こちらもチャレンジ精神、向上心が半端ない星の元に。

さて、「私の個人的な印象では、バッハが以前の楽曲を再記入する際、その筆致ははつらつと輝いて見える✨」…と礒山氏。なにしろ、 「『ヨハネ受難曲』の歴史は、初稿の形を取り戻そうとする道程だとも言える…。」この礒山論は、またもや最後の最後にクライマックスがやってくる。 no.40の最終曲のコラールAch Herr, lass dein lieb Engeleinの、初稿への復帰に話を取っておきましょう。


しかし、なんとここでは礒山氏はバッハにもの申す! 20曲目のテノールアリアだ。 書き直すことは、何かを失うこと?(*_*)鞭打たれた血に染められたイエスの背中を、虹のかかる天国として描く場面。i教授は、第4稿の歌詞の変更(パロディー)に、むしろ初稿の喪失を惜しむ。(/_;)/~~初稿、第3稿では、『ブロッケス受難曲台本』のアリアを改訂した『ヨハネ』の歌詞が使われ、「虹の動機」、「充溢の動機」などの音型が、「大波 」の言葉とともに目に見えるかのような音画で見事に表現されている。それが、 第4稿で、バッハは感銘深めてしまったのか。ひたすらに「イエスよ」の、ダ・カーポで計24回にのぼる呼び掛けが含まれる歌詞に替えたのだ。 バッハの必殺パロディー。そこでi教授曰く、…「御名」の濫用を感じる。あまりにも、心を込めれば込めるぼど多すぎではないか、と。 確かに、元の歌詞の出だし「思いはかれ~」のテノールの呼び掛けであのフレーズを聴きたい💗そんな気持ちにはなりますね!それでも、「地獄からの解放へ」の道筋をバッハはどうしてもいれたかった。。バッハのこの選択の意図は、深い。

晩年の傾向も表しているようです。この延長線上に、死の床コラール『汝の玉座の前に今や歩み寄り』の希望的歌詞への変更もあるし、この『ヨハネ受難曲』最後の感動的内容のコラールの初稿への復帰あり・・・。 最近発見されたという、ヨハネの第2稿の完全な形の台本。ここでの冒頭合唱曲、そして最終曲までもが「コラールファンタジー」であり、「コラール受難曲」への構想があったのではないか、という推測も行われている、そんな過程を経た、コラール重視の『ヨハネ受難曲』。だからこそ、やはりこの最終コラールに繋がりますね。

他にも触れるべきコラールはあるけれど、やはり最終の40曲目のコラールが圧巻✨このコラールの歌詞の中には、「アブラハムの懐」が出てくる。これは、ルターによって否定された、カトリックの正式教義となった「煉獄」のひとつ。ライプツィヒのど真ん中で、こうした共観福音書の使用(ブロッケス受難曲台本)や、錯綜したこうした表現が含まれること、そして、またしてもここで溢れんばかりのイエスの「復活」への期待から来る、イエスとまみえさせてください! という喜びが歌詞に感動的に含まれる。これは何を意味するのだろう?---純粋な、福音書テキストによる「受難曲」の求めからは行き過ぎか?---聖金曜日の「受難」に、この壮大な「復活」への期待は、枠を超える?そんなことが上演に障壁が生じた原因かもしれない。 礒山雅氏の、具体的、実証主義とは違う、叡智の仮定に、わたしもおおきく、頷きました!!---キリストの受難の出来事から、「ヨハネ福音書」が神話になり、また数々のバッハ編集を経た「バッハのヨハネ受難曲」もひとつの神話になり、「アーノンクールのヨハネ名演」あり、そしてこの「ヨハネ礒山説」も、今後の1つの規範になっていく…おおよそ2000年間に渡る、ヨハネ→礒山氏への全身全霊の伝言連鎖を可能にしているのも、それぞれが「自分自身にできうる限りにおいて」のそれぞれの「受難」への向き合いなのですね。


「現在化」。2020年版で眺めるヨハネ受難曲もひとしおです。 ペストに襲われた現地で献身的な救済活動をした作詞家ヘルベルガーのコラールあり(no.26)、イエスに平手打ちする下役に抗議の声を上げる内容の、マタイ受難曲の37曲にも共通のインスブルック・コラール。(no.11) この歌詞の中で、 「その責任は私とその罪にあるのだ」と自己正当化、他者糾弾の嵐の中にあって 内面に転回される。この尊い考え方!😭ここに、バッハの共感が表れているとi教授。・・・「すべての人のための、誰のせいでもない…人災。」これは、今の2020年の状況。 ブーレーズがよく引用するニーチェの言葉を、少し今に合わせて勝手に私が歪めたものだ(;-;)「人災」と呼ぶ私も既にパラドックスに陥っているものの(苦笑)、やはりすべての人の当事者意識なしに乗り切れないものかと思いました。このコロナ。 当事者意識。


とにかく、i教授の、類い稀なバッハへの共感力に、吸い寄せられ、、私自身がぺテロに、ユダに、トュルバになって、「受難」思想に浸りました。しかし、ここで陥ってはいけない謬見は、“人が何かをなしうる” ということ。 贖罪を受けるのは、キリストのみ。 「成し遂げられた! Es ist vollbracht!」(no.30)のイエスの言葉は、ここでは「復活」を見据えてというより、死別と不可分の成就、受難そのものへの成就を表しているのではないかということ。ここは、ルター派受難思想に、襟をただして立ち返ってみる。

思えば2017年、i教授最期のドイツ夏の旅となってしまった、あの往復の機内で読まれた本は、実はドストエフスキーの『白痴』であった。 壮絶な美しい恋愛小説! いや、その深さはあまりにも深い。その中で暗示的に登場するホルバインの『死せるキリスト』。 「こんな絵を見ていたら、信仰を失くしてしまう人だっているだろう」それはドストエフスキーの有名な究極的な言葉で、彼はこの絵に尋常ならざる衝撃に打たれたと、その様子を妻が証言している。 死の全能性というペシミズムとキリストの復活をめぐるひそかな思い・・・。 終末論的希望。


「私は、性悪説ですから・・・」 のi教授の口癖が聞けなくなって、久しい(/_;)人間の受苦は、ちっぽけなものかもしれない。そこから導きだされるのは、 「忍耐」と、 「わずかな希望」。 性悪説なくして、そもそもバッハの『ヨハネ受難曲』も、ドストエフスキーの『白痴』もこの世になかったはずだから。 最後に想うことは、 これはひょっとして、バッハの『ヨハネ受難曲』ではなく、バッハによる『バッハ受難曲』だったということ。そして、この本から『i 受難曲』を聴いて、歪められながらも未熟ながらに、書いたこの感想が、私のpassionの一歩として歩み始める。i教授に心からの敬意と感謝をこめて。 合掌。 30.April 2020

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